自分の自殺を自分で止めるブログ

「死にたい」に逃げたくなります

植松容疑者に賛同してたけど、いまは違う

わたしは、植松容疑者が例の大規模殺人事件を起こしたとき、心の中では容疑者に大いに賛同し、褒め称えてしまいました。

「誰にも大切にされてない」「人として価値がない」「役に立ってない」「みんなに疎まれている」「そんな人は死んだらいい」

重度の障害持ちさんを人と見なさない感覚にも賛成していた

「社会にとって不要な人間はゴミだから、ゴミは捨てたらいい」ぐらいの感覚

 

ただ、被害者さんたちがどんな人だったか、

笑顔で生きていたこと、楽しみや好きなことがあったこと

彼ら彼女らを、愛していた家族がいたことを知って、考え180度回転

「植松容疑者の言ってたこと、嘘じゃん」

「家族にとっては、大事だったじゃん」

「じゃあ、彼ら彼女らも普通の人間じゃん」

「殺したらダメじゃん」

「娘は甲でも乙でもなく美帆です」と公表してくださった、美帆さんのお母様の存在が大きいです。お母様の訴えのおかげで、認識できました。目が覚めました。彼ら彼女らが人間だということを。私は、そんな簡単なことすら分からない哀れな生き物でした。

 

ただ、「社会にとって不要な人間はゴミ」という考えは、今度は死刑になる植松容疑者に当てはまるわけです。遅かれ早かれ、彼は死刑になる。なぜか?彼は社会にとって生かしておけないから、捨てるしかないから。

 

しかし、植松容疑者の人物像を知る人の証言では、

「もともとは好印象を持ってた」

「礼儀正しくしっかりしていた」

というエピソードもちらほら出てくるんです。

 

ということは、今は「まとも」に見える貴方の身近にいるあの人が、豹変してしまう可能性もあるわけですよ。

 

そんな怖いこと、起きて欲しくないけど